食のトレンド 平成流通30年史

【平成流通30年史 第3回】
失われた20年にディスカウントストア(DS)が急成長

昭和のDS業態はダイクマ、ロヂャースがリード

平成の30年で大きくボリュームアップした業態がある。ドラッグストア業態とディスカウントストア業態だ。なかでもDS業態の急拡大は目を見張るものがある。ドン・キホーテのような総合DS、オーケーのような食品DSを合わせると、その業態規模は天文学的に伸びた。

昭和のディスカウントストアを牽引したのが、神奈川県平塚市に本社のあったダイクマ、同じく神奈川県相模原市のアイワールド、埼玉県のロヂャース、東京・上野の多慶屋などだ。なかでも業態を代表するチェーンと目されていたのが、ホームセンター事業を展開していた「大工の熊五郎」。同社はイトーヨーカ堂と資本提携し、「ダイクマ」に商号変更、総合DS企業になった。

ところでロヂャース、アイワールド、多慶屋などの総合DSの地元での繁盛ぶりは語り草になっている。JR横浜線相模原駅が最寄り駅だったアイワールドは、駅から少し距離があったが、週末ともなれば人の流れが出来ており、初めてでも店を探すのに苦労しなかった。つまり昭和のディスカウントストアは、アイワールド、多慶屋のような単独店展開の企業が多かった。したがって個店としてみれば超繁盛店でも、企業トータルとしては、それほど大きな売上ボリュームにはなっておらず、小売業全体に与える影響力はそれほど大きくなかった。

昭和のDSチェーンには1,000億円の壁があった

しかし、昭和のDS業態では、売上規模的にも、資本関係からいってもダイクマが最有力チェーンと見られていた。埼玉のロヂャースと神奈川のダイクマとは、ある時期まではそのパワーは拮抗していたが、1978年にイトーヨーカ堂がダイクマの株を一部取得、ダイクマが流通業の本流へとその占める位置を変えるにつれ、この両社には大きな差がついていった。

しかし、昭和時代のDS企業には「売上高1,000億円の壁」があった。ダイクマも売上ボリュームが1,000億円を超えつつあった時期に、家電やカメラがアナログからデジタルに移行した。その波に乗り遅れたダイクマは成長軌道から外れ、ヤマダ電機に買収されてしまった。

日本のディスカウントストアに、昭和時代「1,000億円の壁」があったのは、当時の社会状況とも大きく関係している。昭和の最後はバブルの時代であり、高度成長を再びバブルで引き寄せようとする終末期のもがきもあった。しかし、昭和末期を別にすれば、昭和30年代以降の日本経済は、かつて経験したことのない高度成長期であった。とくに昭和48年の石油ショック以降は、物価の上昇に合わせて給与も大幅増となり、日本の経済ボリュームは世界第2位になっていく。これはその後、中国に抜かれるまで続く。

しかも、昭和時代の日本経済は、当時の日本人の「一億総中流意識」からもわかる通り、誰もが自分も中流になれると思っていたし、事実30代半ばになれば、そこそこの所得水準に達していた。そのような状態にあっては、若いときにはディスカウントストアを利用しても、所得水準が上がってくれば、ディスカウントストアを活用する理由はなくなる。

大手チェーンのディスカウントストアには成功例がない

昭和のディスカウントストアでいうと、大手チェーンも店舗年齢が古くなった物件を、DSに転換する事例が増えてくる。その代表的がダイエーの「トポス」業態だ。これはダイエーの駅前立地の古い店舗をディスカウントストアに転換したもの。駅前立地で駐車場があまり取れないため、郊外立地の店舗には集客力で負ける。そこで原価償却も済んでいることだし、ディスカウントストアにして競争力をアップしようとしたのが「トポス」だ。ダイエーの古い店舗は、立地のいい店舗が多かったため、関東のトポス藤沢店、同町田店、同北千住店、関西のトポス古川橋店などのように売上高が100億円を超える店舗も多かった。トポスに転換して暫くは顧客が殺到する状態が続いたが、それは現在のドン・キホーテの比ではなかった。

イトーヨーカ堂も店舗年齢の古い中型店舗を中心に「ザ・プライス」に業態転換して活性化を図った。しかし、この「ザ・プライス」は食品・雑貨の小型DSが中心で、2階以上のフロアは衣料品や家具の専門店をテナントとして誘致するなど、その店舗フォーマットは中途半端。そのためイトーヨーカ堂のDS進出の割りにはインパクトに乏しかった。

受け入れられなかったアメリカ型ディスカウントストア

大手チェーンというわけではないが、アメリカのディスカウントストアの急成長とくにウォルマートの急伸に刺激され、アメリカ型DSの展開に乗り出したのが福岡の家電専門店Mr.Maxだ。同社では1978年(昭和53年)にDS1号店としてMr.Max長住店を開店、九州での店舗展開を始めた。また1997年(平成9年)には関東1号店のMr.Max伊勢崎店を出店。2000年には首都圏の一角、千葉県習志野市にも出店した。

当時のMr.Maxの勢いはかなりのものであり、九州、関東、首都圏での新規出店は多かった。そうした事情もあり、ウォルマートをモデルにしていた同社は、売上高がまだ1,000億円に達していない時期に大風呂敷ともいえる「売上高1兆円構想」を打ち上げるなど、日本でもウォルマート的DSが大きなボリュームを確保するのではないかと予感させたりもした。しかし、同社はディスカウントストアの展開を始めて40年後の2018年2月期で連結営業収益(売上高)は1,183億円にとどまり、中堅チェーンストアの位置から抜け出せないままだ。

もう1社、平成に入ってアメリカ型ディスカウントストアを展開したはいいが、成果が上がらなかったのがイオンだ。同社の「メガマート」は日本では珍しいノンフーズを主体としたディスカウントストアだった。

イオンの「メガマート」は1994年(平成6年)から展開を始めたDS業態であり、ペガサス代表の故渥美俊一氏が同店を見て絶賛した、いわくつきの店舗。しかし、渥美氏が褒めあげた店舗は、うまくいかないというジンクスがあり、「メガマート」も中長期的には、食品を含む「ザ・ビッグ」業態に転換していくことになる。「ザ・ビッグ」1号店は1989年9月の旧みどり岩国店で、イオンのDS業態は「ザ・ビッグ」に集約されていく。イオングループ全体のDS業態の店舗は、2018年1月現在207店舗で、その店舗比率は約22%になっている。

中流層の減少がディスカウントストアの成長を促す

1989年に3%の消費税課税から始まった平成時代は、1990年代初頭にバブルが崩壊、日本経済は一気に暗転する。バブル崩壊と同時に戦後の日本社会を規定してきた「土地神話」が崩れ、バブル時に抱えた負債が企業活動や個人の暮らしを圧迫するようになった。1990年代になると、徐々に民間給与は上がらなくなり、1990年代後半にピークになった給与は、その後ダウントレンドになっていく。(国税庁調べ)ところが所得税、住民税などの直接税、間接税の消費税、年金、健康保険料、介護保険料などは増加。これらを合わせた国民負担率はアップし、給与からこれらを引いた使えるお金は、中長期的には確実に減少していった。

短期的にみてもバブル崩壊の後、急速に不景気になり、安くなければ商品は売れなくなり、1994年頃から価格引き下げ競争が始まった。この結果、日本の価格決定権は、従来のメーカーからSMやDSにシフトしていった。1992年にトライアルカンパニーが「トライアル」1号店の南ヶ丘店を、イオンが「メガマート」1号店を出店したのは時期的にはベストタイミングだった。ドン・キホーテも1989年に139坪の府中店を開店した。ただ同店は開店が少し早すぎたこともあり、当初の売上高は3分の1の5億円にとどまった。しかし、2号店の杉並店は、バブル崩壊後のオープンだったこともあり、売上は初年度から15億円を超えた。つまりバブル崩壊後の日本経済は、価格が大きく価値観として浮上してきたのだ。

平成初頭に就職氷河期が始まる

やや余談になるが、1992年に最初の就職氷河期が始まった。団塊ジュニアは1971~1974年生まれの人たち。団塊ジュニアの先頭集団は1992年には21歳になっているのだ。これは日本社会のボリューム層である団塊ジュニアの就職、結婚の時期が日本が戦後それまで経験したことのない不況と重なり、団塊ジュニアは第3のベビーブーマーの母集団とはなりえなかったということだ。

もし1990年代半ばから後半にかけて、団塊ジュニアによる第3のベビーブームが起こっていれば、今のように日本は年間30~40万人も人口が減るといった事態にはなっておらず、合計特殊出生率も、2005年に1.26にまで落ち込むほどの低落傾向にはなっていなかったはずだ。別の見方をすれば、バブル崩壊後の不況のなかで、就職氷河期世代のような家族形成もままならないような人たちを作り出してしまった日本の政治、経済の対症療法しか取れなかった甘さこそ問題にすべきではないかと思う。

逆にいえば、バブル経済や土地神話の崩壊という流れのなかで、その変化にこそ危機感を抱き、あの時期に経営難におびえる一方だった企業の社員採用に補助金を出すといった施策を取っていれば、その後の就職難民はかなり減少、少子化の歯止めになっていたのではないかと思われる。大手企業を中心にした内部留保こそ少し少なくなっているかもしれないが、正規雇用者が増えた結果、内需は拡大、景気回復のタイミングもずっと早かったのではないか。

就職氷河期以降の世代のライフスタイルにフィットしたドン・キホーテ

このように昭和から平成に変わった約10年で、日本社会は大きなパラダイムシフトがあった。この結果、ディスカウントストア業態も大きく変わった。ヤマダ電機の子会社となったダイクマ、500~600億円前後の売上で変化がなくなったロヂャースなどの先行チェーンに対して、ドン・キホーテとトライアルカンパニーは、1990年代後半から平成時代の20数年で大きな成長を遂げた。

ちなみにトライアルカンパニーの2018年3月期の売上高は3,452億4,000万円、ドンキホーテHDは、9,415億800万円とかなり大きな差がついている。この差は両社がターゲットとしている客層の違いによる。トライアルカンパニーのコシヒカリは、SMよりもかなり安い。どんな米を使っているのか疑問に思った、あるSMの関係者が購入して自宅で炊飯してみたところ、普通は炊飯器の真ん中で盛り上がるごはんが、逆に盛り下がった。つまりトライアルカンパニーのコシヒカリは、一部割れ米などが混入されていた。だからこそ安い価格設定で販売できたのだ。

炊きあがったごはんの真ん中が盛り下がっても、コシヒカリはコシヒカリであり、自分たちは工夫しながらおいしいコシヒカリを食べていると自負する消費者もいるということである。逆にいえばトライアルカンパニーのお客さまは、かなり古典的なディスカウントストアのユーザーであり、たとえ割れ米が使われていても、「わが家のコシヒカリは訳あって安い」と納得しているのだ。

それに対して、まずヤンキーやマイルドヤンキーを顧客化していったドン・キホーテは、自社はディスカウントストアであると主張しているが、必ずしも価格価値だけで売れているわけではない。ドンキの店舗は、圧縮陳列や楽しいPOP、「夜店」のような夜間営業など多様な価値観に支えられて成長してきた。

ダイエー立川店がドン・キホーテ立川店になって大きく売上を伸ばしたり、ユニーやファミリーマートが、ドンキのノウハウを導入して50%近く売上を拡大したのもドン・キホーテの刺激的な売場展開があればこそ。

そして今や同社の店舗展開は、全国に及んでいるため、その顧客層はマイルドヤンキーから世帯年収300万円以下の非正規雇用者世帯を含む、現在の日本の主流層へ拡大してきた。つまりドン・キホーテの客層はいまや日本人のメインストリームを占めるようになってきているのだ。したがって、18年6月期の決算発表で、大原社長が西友の買収に興味津々の談話を発表したのは、ドン・キホーテの客層が西友とダブってきたことも大きい。

執筆:山口 拓二

食のトレンド 平成流通30年史

【平成流通30年史 第2回】
時代を先取りした「九州流通モデル」

北海道モデルは業態別寡占化が鍵

2000年代初頭から日本の流通業は、大きく変わることになった。2000年2月長崎屋が倒産して会社更生法を申請、翌2001年9月にはマイカルが1兆7,000億円の負債を抱えて経営破綻、民事再生法を申請した。マイカルの2兆円近い負債には政府も恐慌を来した。マイカルでこの負債額なら、当時すでに変調を来していたダイエーが経営を投げ出せば、一体いくらの負債総額になるのかと考え、その後の同社の救済スキームが歪んでいくきっかけとなった。

ただ経済活動が活発な東阪名エリアを抱える本州よりも、北海道や九州の周辺地域のほうが、流通業変動の影響は大きかった。例えば潰れるはずがないと言われていた都市銀行の北海道拓殖銀行が金融不安のあおりで倒産した北海道では、中小SMチェーンが恐慌に陥り、生協のコープさっぽろのほか、SMチェーン、GMSチェーンとも、数少ない生き残り枠をめざす戦いが始まった。

SMチェーンではラルズが競合チェーンとの提携で規模拡大の色気を見せ始めたのが2000年代初頭だ。2002年5月札幌のラルズと帯広の福原が経営統合。同年11月には持ち株会社のアークスを設立して大きな流れを作った。その後、同社は道内では「ふじ」をはじめ数十億円から200億円規模のSMチェーンを吸収、さらに東北にまで手を広げ、ユニバースやベルジョイスを傘下に収めて、売上高が5,000を超える規模まで拡大してきた。いまや北海道のSM業態では、アークスが断然トップに立っている。

一方、GMSチェーンでは、北海道はダイエー、イトーヨーカ堂、マイカル北海道が3強を形成していたが、主導権を確立するチェーンはなかった。それが2000年代に入って一変する。後発のイオンは、自前店舗を開発するとともに、独立路線に走ったマイカル北海道(社名もポスフールに変更)を、同社がマイカルの再建スポンサーとなっていることを盾に、吸収合併をめざした。それでもポスフールは、4年ほど独立路線を進んだが、やがてイオンに吸収された。この結果、北海道のGMS業態は、イオンの自前店舗+ポスフールの店舗+ダイエーの店舗を合わせたイオン北海道が圧倒的トップに立ち、同社をイトーヨーカ堂と西友が追いかける形になっている。

こうしてみると、平成時代になって北海道の流通業は大きく変わったように見える。とりわけSM業態/アークス、GMS業態/イオン北海道、生協/コープさっぽろに集約された3つの業態の寡占化は著しい。この他ドラッグストア業態では、ツルハHDとサツドラHD、ホームセンター業態ではDCMホーマック、CVS業態では、セブン-イレブンとセコマによる寡占化が進んでいる。つまり日本全体で見れば、CVS業態の寡占化が進行しているのに対して、北海道ではCVS業態も含んで、多くの業態で特定チェーンへの売上の集中化が進んでいる。この部分をとらえて、北海道の小売業こそ日本では、いち早く進化を遂げたと主張する識者も多い。

寿屋、ニコニコ堂に代わる新しいプレイヤーの登場

しかし、21世紀初頭の北海道の小売業の変化は、業態としての枠組みは残しており、業界全体が根底から覆るものではなかった。それに対して九州では、2001年12月にダイエーとトップの座を争っていた寿屋が経営破綻して民事再生法を申請、さらに翌年4月には熊本のニコニコ堂も経営破綻した。倒産前の両社の売上高は、寿屋が00年2月期で2,543億円、ニコニコ堂が00年3月期で846億円と、当時の九州としてはかなり大きな数字だ。しかも寿屋の場合、子会社の小型SM「くらし館」が佐賀県のハローと合併、かなりの店舗を展開していた。したがって、民事再生法が適用されると、利益の出ている店舗は残っても、閉店せざるを得ない店舗も多く、普段の買物が不便になる顧客も多かった。

そうしたSM店舗減少の受け皿となったのが、コスモス薬品に代表されるドラッグストア業態だ。同社の前身は1973年、宮崎県延岡市で創業した宇野回天堂薬局。それから20年後の1993年ごろから本格的なドラッグストアの多店舗展開を開始した。以後わずか24年でコスモス薬品は、九州から中国、四国、近畿、中部まで進出、売上高は5,000億円超まで拡大してきた。宇野回天堂薬局時代の売上高を仮に1億円とすれば、同社の売上は40年ちょっとで、5,000倍になったことになる。

コスモス薬品の売上高の推移コスモス薬品の売上高の推移(excel ダウンロード)

このようにコスモス薬品が、急速に成長できたのは、その出店コンセプトにある。同社はドラッグストア業態に本格的に転換する際、出店サイトを人口1万人前後のルーラルな町村にした。当然、このような立地では、医薬品、化粧品、雑貨などドラッグストアの主力カテゴリーだけでは利便性が低いため、生鮮食品をはじめ、日配、加工食品、飲料、酒類などの品揃えを充実させた。

つまりコスモス薬品が九州で成長するための基盤を確立できたのは、寿屋やニコニコ堂が経営破綻し、SMチェーンが効率が悪いということで切り捨てていたルーラルエリアの商圏化に成功したからである。逆の見方をすると、まだGMS(総合小売店)が小売業界の主役であった時代には、駐車場を3,000台、4,000台用意した大型店を開発、ルーラルエリアからは買物に来るのが当然ではないかという「上から目線」があったのに対して、コスモス薬品は初めて自分のほうから、これまでチェーンストアが存在しなかった場所へ近づいて行ったのだ。

そして九州における寿屋、ニコニコ堂からコスモス薬品へのプレイヤーの交代は、小売業界の構造的変化といえる。これは北海道のように各業態のなかで寡占化が進行したのとは大きな違いだ。もっといえば、九州のように旧来型の業態がフェードアウトし、それに代わって生鮮食品重視型ドラッグストアという新しい業態が誕生したという点で、九州のほうがより先進的である。

21世紀に入って成長が本格化した、北海道のツルハHDと九州のコスモス薬品が、ともに売上高5,000億円を超えるところまで規模が拡大し、日本を代表するリーディングドラッグ・チェーンになったのも象徴的だ。また静岡県浜松市で、コスモス薬品と同様の業態を展開する杏林堂薬局が、ツルハHDの子会社となり、浜松市を舞台にこれから数年競合することになった。その成り行きがどうなるかも注目される。

ディスカウント業態がリードしてきた九州の小売業

こうして平成10年代(21世紀)に入って、九州の流通業の構造が変わった背景には、同地では過去長い期間にわたって、低価格オペレーションが主流になっていたことが関係している。バブル崩壊後のデフレの時代になると、全国的に安売りが増えたことは記憶に新しい。ところが九州では、バブル崩壊のはるか以前から、日本全国どこよりも安い価格での販売が続いていたのだ。

したがって岩手県のベルセンターが開発したディスカウントSM業態の「ビッグハウス」を北九州市の丸和(現在は広島のユアーズが吸収合併)が、ベルセンターに無断で出店したときも、丸和のビッグハウスが成功すると予測する人はほとんどいなかった。案の定“一物二価”を基本にしたビッグハウス・フォーマットは、九州では評価されず、厳しい状況にあった丸和の経営を立て直すことはできなかった。その理由は九州では、1980年代からスーパーマーケットでも、価格の明確なNBのグローサリーを中心にディスカウント販売するのが普通だったからだ。つまりケース販売と単品販売では同じ商品であっても、手間のかけ方が違うから別々の価格で販売するビッグハウスの一物二価政策は、東北や北海道ほどには九州ではインパクトはなかった。

またすべての業態が、デフレ時代に低価格販売でにらみ合いとなる中、九州のSM企業は利益の内部留保ができず、脆弱な財務基盤を改善することが出来なかった。その結果、寿屋、ニコニコ堂のように、大きな売上を確保しているにもかかわらず利益が伴わず、経営破綻してしまうケースも多かった。上記2社のほか、ダイエーと合併したユニードダイエーも、影が薄くなっていった。

最近の九州の流通業は、1995年に初進出したイズミとイオン九州が、GMS業態でトップ争いを続けるとともに、食品販売ではディスカウントストア(DS)やディスカウントドラッグが主導権を握る状態となっている。DSではトライアルカンパニーのほか、東京のロジャースでDSのノウハウを学んだ三角商事(ルミエール)、サンドラッグの子会社となり、ドラッグストアとのコンビネーションDSとなったダイレックス、ディスカウントドラッグではコスモス薬品がSM業態の領域を侵しつつある。ドラッグストアのコスモス薬品やコンビネーションDSのダイレックスは、利益率の高い医薬品、化粧品で利益を稼ぎつつ、生鮮食品やグローサリー、酒類などを低価格販売することで顧客層の拡大に成功している。

こうしたディスカウント業態が、九州で支持されているのは、同リージョンを構成する7県が全国的にみても所得水準が低いことも関係している。九州7県の最低賃金は時間給でまだ700円台である。当然パートタイム労働者の月間給与も低く、たとえ主婦が働いても世帯所得が上がらないため、どうしてもディスカウント業態に支持が集まる傾向にあるのだ。

リージョン別最低賃金(時間当たり)
リージョン別最低賃金(時間当たり)(excel ダウンロード)

執筆:山口 拓二

食のトレンド 平成流通30年史

【平成流通30年史 第1回】
始まりは1995年1月17日午前5時46分

昭和から平成への替わり目に流通業の主役も変わる

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が逝去し、長きにわたった昭和時代が終わり、翌1月8日から平成時代が始まった。明治と昭和に挟まれた「大正」と同様、「平成」もやや影の薄い時代になるのではないかと思われた。しかし、2019年に幕を閉じる「平成時代」は、予想以上に骨太な時代となった。平成の30年はITが大きく時代を変えたことは間違いない。平成が始まった1989年には、まだ高額な耐久消費財だったパソコンが、いまやスマートフォンとなって多くの日本人のポケットやカバンに入るようになることを、だれが予測しえただろうか。その中で流通業も大きく変わった。今回から10回強にわたり、チェーンストアを中心に流通業の30年の変化を整理してみた。

平成時代の幕は平成2年の「1.57ショック」で開く

昭和30年代以降の日本の小売業は、ダイエーをはじめとするチェーンストアが主導権を握った「量販店の時代」だった。当時はボリュームこそが最重要課題であり、1兆円チェーン一番乗り、売上高2兆円達成など量的なミッションこそがもてはやされた。したがって食品では「満腹感」、衣料品では「バラエティ」が求められるなどシンプルなニーズが主体になっていた。逆の見方をすれば、当時の日本市場は、単純なニーズが主体ゆえに勢いがあったのだ。最近アジア各国の市場が沸騰しているのも、まだ普及率の時代にあり、ニーズがシンプルだからといえる。

そして平成初頭は、昭和の流通業をリードしたダイエーなどの量販店チェーンが、最後の悪あがきを見せることになる。3%の消費税施行から始まった平成時代は、翌平成2年に合計特殊出生率が過去最低となる「1.57ショック」により、少子化=人口減少社会の到来が確実となった。また、平成3年には携帯電話の「mova」のレンタルサービスが始まり、平成4年ごろには、その後のコンビニエンスストアの成長を決定づけた「中食」の増加が顕著になるなど、現在の日本の社会状況の兆しが平成初頭には揃うことになる。

平成初頭にはダイエーが最後の悪あがきを見せる

平成時代の経済状況は、「バブルの沸騰」で始まった。日本の地価は下がらないという土地神話に支えられた日本経済は、平成初頭にピークを迎えたが、以後土地神話の崩壊という質的変化に直面する。これはダイエーでいえば、土地の含み益で資産を増やし、その錬金術で新たな店舗を出店する戦略が破綻したことになる。そのためダイエーでは、土地の含み益経営から売上規模の拡大によって、株式市場での信頼をつなぎとめる方向性を打ち出した。1991年末(平成3年)には、秀和に株式市場で株を買い占められていた忠実屋と資本・業務提携。1994年(平成6年)にはダイエー、忠実屋、ユニードダイエー(九州)、ダイナハ(沖縄)の4社が合併した。この結果95年2月期には、ダイエーの売上高は2兆5,415億円まで拡大した。同時期のイトーヨーカ堂の売上高は1兆5,387億円なので、売上高では1兆円強の差がついている。


ダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコ(当時)の平成初頭の売上高の推移(excel ダウンロード)

しかし、売上は大きくても利益という点では大手GMSチェーンは、平成になってバブル崩壊もあり、厳しい状況になっていた。4社合併後のダイエーの95年2月期の経常利益率は、わずか0.28%で98年2月期には、ついに経常赤字に転落する。99年2月期も0.04%とV字回復とはならなかった。これは1兆円でわずか4億円の経常利益しか稼げなかったということだ。表のようにイトーヨーカ堂は5%弱、ジャスコ(現イオン)は2%前後の経常利益率になっている。なかではイトーヨーカ堂の高利益ぶりが目を引くが、これはこの当時イトーヨーカ堂は、ホールディングカンパニーの役割を果たし、セブンーイレブン・ジャパンから配当があったことが大きく影響している。

そして運命の1995年(平成7年)1月17日になる。同日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生、阪神間を中心に死者6,434人にも達する大惨事となった。このときダイエーの中内功社長は、スーパーマーケットは生活のインフラであり、被害を受けた店舗であっても早急に補修し、被災者の暮らしをサポートしなければならないということで、大震災直後の販売の陣頭指揮を取った。

阪神淡路大震災によってダイエーの退場は10年早まる

中内功氏が最後の輝きを放った1995年1月から約10年後の2004年12月末、ダイエーは4年間だけ存在した国策会社、株式会社産業再生機構へ支援を申し込み実質的に倒産した。1995年2月期に2兆5,415億円と最大の売上を記録したダイエーだが、以後は徐々に売上がダウン、1998年2月期には258億円の経常赤字となった。これ以降中内社長が退陣、味の素社長だった鳥羽薫氏が社長に就任するなど外部の経営感覚の導入を図ったりしたが、巨象を再生させるには至らなかった。2013年には、かつてダイエーを目標に企業規模を拡大してきたイオンの子会社となり、名実ともにダイエーは日本の流通業界から消えることになった。

しかし、ダイエーの小売市場からの退場は、バブル経済の崩壊、阪神淡路大震災による物理的変動を受けて不可避だったかもしれない。まずバブル経済の崩壊で、ダイエーがそれまで成長エンジンとしてきた地価上昇による含み益経営という前提が崩れた。つまりダイエーは、何もなかった場所に自社の大型店を開発、地価を上げることで、安い価格で取得した土地の価値を高め、それを担保に銀行から新たな資金を借り入れて、次の大型店を開発するという循環で企業資産を拡大してきたのだ。そのような含み益経営が、バブル崩壊によって成り立たなくなった。

そして1995年(平成7年)1月17日の阪神間を襲った大地震が、ダイエーのマーケットからの退場を早めたことはいうまでもない。とくにこの地震では、同社が地盤とする神戸市、西宮市、芦屋市などの阪神間が壊滅的な打撃を受けたことが響いた。この地域の店舗のなかには、建て替えを余儀なくされた店舗も多く、それが他地域の改装ローテーションを1回飛ばし、ダイエーの店舗の競争力を殺ぐことになった。2000年代に入ると、日本のGMSの天井高も3メートル強まで高くなったが、ダイエーの店舗は2メートル50センチほどしかなく、買物していても圧迫感は半端ではなかった。

もう一つ阪神淡路大震災がダイエーの退場を加速したのは、オペレーションシステムをはじめとする同社のIT投資をストップしてしまったことがある。1995年当時のダイエーのシステム化は、競合チェーンに比べると大きく立ち遅れており、オペレーションの標準化もままならないという状態になっていた。これでは効率的な店舗運営が出来るわけがない。これは2005年に日本ヒューレッド・パッカードからダイエー社長に転じた樋口泰行氏の述懐でも明らか。同氏によれば、ダイエーではIT投資に積極的ではなかったうえに、IT投資を凍結していた時期もあり、2005年当時、大きなハンデを負っていたということだ。

コープこうべも大震災に直撃される!

阪神淡路大震災は、ダイエーのマーケットからの退場を加速させたことは間違いない。少なくとも10~15年は早くなったはずだ。それだけ大都市で発生した阪神淡路大震災は、復興の過程で都市の構造を大きく変えたのだ。

そのことを垣間見せてくれるのが、ダイエーと並んで兵庫県の食品小売業をリードしてきたコープこうべの凋落だ。地震があった1995年3月期の同生協の供給高は3,426億円だった。それが22年後の2017年3月期は2,389億円までダウン。しかも2011年4月1日には豊中、池田など大阪北部のエリアで展開していた大阪北生協と合併しており、兵庫県だけで考えれば、地震以降22年間でコープこうべの供給高は、1,400億円前後減少したことになる。生協は組合員という特定多数の人を対象に事業を展開しているため、阪神淡路大震災によって組合員が流動化、コミュニティが大きく変わり、購買行動がシュリンクしたことが考えられる。

平成10年代初頭からダウントレンドに入った百貨店、総合スーパーなどの大型店

1991年(平成3年)~1993年(平成5年)のバブル崩壊で始まった平成の日本経済。ただ日本の流通業はバブル崩壊があっても、平成初頭は百貨店、総合スーパーなどは総崩れにはなっていない。それが明らかにダウントレンドに入ってきたのが、1999年(平成11年)ごろから。経済産業省の「商業統計」でもその傾向は明確に見て取れる。百貨店と総合スーパーのピーク年と2007年を比較すると、百貨店は3兆6,615億円、総合スーパーは2兆5,077億円のマイナスとなっている。(なお「商業統計」の直近の調査年は2014年だが、2007年と2014年は調査手法で連続性がないため、表には参考として掲出している。)

しかし、平成時代30年の流通業を俯瞰すると、前半の約10年はまだ大型店の時代であり、百貨店や総合スーパー(GMS)が買物の場として一定の評価を得ていた。それがロードサイド小売業が進化したり、3,000台、4,000台の大型駐車場を備えた大型のリージョナル・ショッピングセンター(RSC)が増加することによって、百貨店やGMSの相対的価値が低下したのだ。


「商業統計」業態別販売高(excel ダウンロード)

そしてもう一つ日本の小売業の変化のポイントは、2000年代に入って総合店から専門店の時代になってきたこと。スーパーマーケットでは、総合スーパーが徐々にジリ貧になっていったのに対して、食品に特化した食料品スーパーが堅調な推移となっている。また平成時代中盤からは、コンビニエンスストアの成長が本格化するとともに、業種店の薬局から、業態店のドラッグストアへの転換が加速、DgS業態の売上が拡大してきた。これらに加えて家電量販店が、IT家電の普及を機に売上で優位に立ち、ユニクロなどのカジュアル衣料専門店が急成長。百貨店や総合スーパーなど何でも品揃えしている総合店の売上が専門店に侵食されるようになってきた。

大手CVSチェーンが相次いで総合商社傘下に入る

総合店から専門店への売上のシフトを象徴するのが、1988年(平成10年)2月のファミリーマート株の伊藤忠商事への売却、2000年(平成12年)1月のダイエーによるローソン株の三菱商事への売却だ。

西友はバブル期に、東京シティファイナンスなどのノンバンクが巨額の不良債権を抱え,にっちもさっちもいかない状況に陥っていた。その債務超過解消のため、西友は伊藤忠商事にファミリーマート株を売却、コンビニ事業から撤退した。その際、堤清二会長は「どうして西友を売却して、不良債権を処理しないのか」と疑問を呈したが、西友を売ろうとしても国内では誰も手を出さない状況になってしまっていた。したがって2002年(平成14年)3月に住友商事が仲介して、西友がウォルマートと包括的業務・資本提携を締結したのは、今となっては大変な荒技だった。

ローソンの三菱商事への売却もノンバンクによる借入か、事業会社による借入金増大かという事情の違いはあれ、同じような債務超過解消をめざすという意味では同じである。ダイエーがローソン株を売却した2000年1月頃は、バブル崩壊後の株安が、ミニITバブルによってかなり持ち直した時期だったが、それでも当時ダイエーが借りまくって積みあがった2兆円の借入金を解消するには至らなかった。こうして平成流通史の中盤に至って、いま流通業を主導するCVSチェーンの上位3社のうち、2社までが商社資本に支配されることになったのだ。

執筆:山口 拓二