食のトレンド文庫「スーパーマーケットの食トレンド」むかしはいまの物語

【スーパーマーケットのマーケティング事始 第1回】「ターゲットの発見」

むかしニッショーストアというスーパーマーケットがあった

275d7f4c21454f8c0d01a63e4db62d19_l首都圏のスーパーマーケット(以下SM)では、ヤオコーの評判がいい。一時期「ヤオコーの商品は高い」といったネガティブキャペーンで苦しんだが、最近は加工食品や飲料などについても、ディスカウントSMに負けない価格設定で競合店に付け込むスキを見せていない。野菜をはじめとする生鮮食品の価格もリーズナブルだし、2分の1カット、4分の1カット販売も当たり前になっているキャベツや白菜のプライシングも、フルサイズ価格の半分、4分の1であり、小容量になるほど高くなる店舗に比べるとフェアプライスに徹している。

そのヤオコーより20年近く前の1980年代から1990年代前半にかけて、輝いていたスーパーが関西にあった。現在はエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪食に吸収合併されたニッショーストア(現阪急オアシス)だ。これから何回かにわたって、筆者が旧ニッショーストアをはじめとする流通業で学んだ「食のトレンド」の見方や対応していった食ニーズについて、まとめていきたい。

低価格販売で市場を席巻したダイエー

supermarket_photoニッショーストアが1980年代半ば以降に、注目されるようになったことを説明するには、その前提として1960年代、1970年代の関西のスーパー業界の競合状況が、どのようなものだったかを知ってもらう必要がある。1950年代から1960年代前半にかけて、ダイエー、岡田屋(現イオン)、ニチイ(旧マイカル)、イズミヤなどGMSチェーンになっていく企業や関西スーパーマーケットなどSM企業が続々設立された。そして1960年代は大量仕入れ、大量販売を武器にダイエーをはじめとするスーパーストアが価格攻勢に出たため、食品スーパーは完膚なきまでに叩きのめされることになった。

そこで1960年代半ばから関西のSMチェーンが打ち出したのが「鮮度管理」「品質管理」を徹底することによってスーパーストアに対抗することだった。例えば葉物野菜では、売場に出す前に冷塩水処理で水揚げを行い、収穫したてのような瑞々しい状態にして販売、鮮度に問題のあったスーパーストアの野菜より優位に立った。また精肉は、1960年代にはドリップが出ていても平気に販売されており、価格の安さを除けば消費者にとって決して満足度の高いものではなかった。そこで関西スーパーマーケットがリードして開発したのが、売場面積は450坪だが、売場の背後に生鮮の作業場(バックヤード)を備えたSMだ。これで提供する生鮮食品の質はぐっとアップした。そのよりどころになったのが、1962年に設立されたオール日本スーパー経営者協会(現オール日本スーパーマーケット協会)だ。

スーパーマーケットにマーケティングはなかった

cart_photoしかし、ここまでであれば「価格」のダイエー(スーパーストア)に対して「クォリティ」の関西スーパーマーケット(SM)と、それぞれの業態が自分の得意とする所を活かして、食品販売の主導権を取ろうとした話にすぎない。それが1980年代に入って、ニッショーストアがSMの運営にマーケティングを導入してから様相が一変する。つまり、それまではGMS(スーパーストア)であれ食品スーパーであれ、マーチャンダイジングはあってもマーケティングはなかったのだ。

逆にいえば、マーケティングなどなくても、日本全体が好景気に沸き、1973年の石油ショック以降は所得が大幅に伸びる状況にあっては、商品は並べるそばから売れていった。マーチャンダイジングは「商品化計画」と訳されることが多いが、1970年代前半は商品化計画など面倒臭いことをしなくても、きちんと仕入れをして業種店より安く提供すれば売れたのだ。あらゆる商品の普及率が上がり、買い替え需要を掘り起こすしかなくなったいまとは、市場状況は全く違う。

中流層の発見が売場に活気をもたらす

量販店(GMS)、食品スーパー(SM)の時代毎のパラダイム

量販店(GMS)、食品スーパー(SM)の時代毎のパラダイム

ところが1980年代になると、高度成長にも陰りが見えてくる。その不振をなんとかしたいと考えて仕掛けられたのが「バブル経済」だったが、1990年代初頭にバブルは泡と消えた。そこで売場に商品を並べれば売れる時代ではないことを察知し、ニッショーストアが取り組んだのがマーケティングの導入だった。より単純化すれば、同社は食品SMチェーンとして初めて「ターゲット」を設定したのだ。当時同社は自分たちを「アップスケールスーパー」だと規定していた。これは販売する商品は標準スーパーよりワンランクうえだが、店舗オペレーションの効率化などによってコストを下げ、販売価格は標準スーパーとほぼ同等に据え置いた業態だ。言い換えれば、1970年代の一億総中流時代から、少しづつ格差が生まれ始めた状況のなかで、ニッショーストアは自らを「中流」と意識した人たちのうち、ふるい落としの後にも中流に残りそうな人、あるいは上流に手を掛けられそうな人を自分たちのターゲットとすることで、自社のポジションを明確にしたのだ。

その結果、1980年代のニッショーストアには、中流層に足場を置く消費者が、「自分たちのスーパー」と意識して来店、好業績を達成していた。当時の同社の経常利益率は5%台で、SM業界にあってはトップクラスだった。しかし、自社のターゲットを明確にしたニッショーストアは当時のSM業界にあっては、アップスケールスーパー=高級スーパーとしか認識されていなかった。つまりスーパーストアやSMの関係者にとってアップスケールスーパーとアップグレードスーパーの区別さえついていなかったのだ。同社のマーケティング導入を主導したのが、店舗運営部長だった井上靖之氏。ただ1995年暮れに同氏が60歳を前に急逝、ニッショーストアは急速に輝きを失っていく。そうなってしまった要因を探ることもまた、重要なテーマではあるが、それは別の物語になる。

執筆:山口 拓二

第2回<予定>「スーパーマーケット中流層ユーザーの劣化とその対応」

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