食のトレンド文庫「スーパーマーケットの食トレンド」むかしはいまの物語

【スーパーマーケットのマーケティング事始 第3回】「商品の引っ越し」と「中食の誕生」

2500人に1店舗まできたコンビニの店舗密度

83f01a7535d6a40d968f4720fe93c1eb_mミスターコンビニともいわれたセブン&アイHDの鈴木敏文氏が83歳でついに退任した。1970年代初頭、伊藤忠商事が持ち込んだコンビニの日本での展開を決断したことは、いまでこそ勇断といわれているが、当時はイトーヨーカ堂社内でさえ、ほとんど相手にされていなかった。1970代初頭といえば量販店(GMS)の成長が本格化した時期であり、イトーヨーカ堂も首都圏を中心に東日本で大量出店、売上高は一気に1兆円を超えた。

そのような状況下、1973年11月に(株)ヨークセブン(現セブン-イレブン・ジャパン)を設立、翌年の5月に1号店の豊洲店をオープンさせたセブン-イレブンだが、当初は現在のコンビニとは大きく違ったフォーマットだった。まして相前後して事業会社を設立しコンビニの展開に乗り出したローソン(ダイエー)、ファミリーマート(西友)は、スーパーマーケットの感覚でコンビニを経営していたため、ミニスーパーの域を出なかった。恐らく鈴木敏文氏を含めて関係者は、コンビニが店舗数で5万店、販売高で10兆円を超える規模にまで成長するとは誰も考えていなかったはずだ。

1985年前後だったと思うが、雑誌の取材でセブン-イレブンの店舗開発担当の役員に会った時、コンビニはどこまで増えるかという話になったことがある。具体的な店舗数は出なかったが「人口1万人に1店舗程度ですか」という問いに否定の言葉はなかった。当時セブン-イレブンは2,000店舗台、業態全体でも7,000店舗台だった。1万人に1店舗なら約1万3,000店舗だが、その程度のイメージしか浮かばなかったのであろう。人口2,500人に1店舗(2014年時点)までコンビニが増えるとは、当時経営の中枢にいた人でもわからなかったということだ。

大きく変わったコンビニの店舗フォーマット

セブン-イレブンの日本での1号店がオープンした1974年5月は、筆者が大学4年生の時。1976年2月期末のコンビニの店舗数は全チェーンを合わせても120店舗なので、スタート時点の出店は微々たるものだった。コンビニ創世記は、それほど注目して見ていたわけではないので明確な記憶はないのだが、品揃えは今よりもグローサリーが多かったように思う。ガソリン販売を柱に飲料や加工食品主体の商品構成だったアメリカのセブン-イレブンをモデルにした、日本のセブン-イレブンの当初のフォーマットがグローサリー寄だったことは当然といえば当然。カウンターオペレーションで、ドリップコーヒーを販売していたが、保温していると煮つまり、廃棄直前に購入した場合は、悲惨な香りだった記憶がある。

コンビニの潮目が変わったのは1970年代後半から。セブン-イレブン・ジャパンでいうと1980年11月に1,000店舗を突破、以後順調に店舗数を増やしていく。

顧客ニーズに合わせた「商品の引っ越し」

cd4905b9ff8eb8d19b07cc67fe3dee94_lその理由はこの時期に日本のコンビニのフォーマットが変わり、弁当、おにぎり、サンドイッチなども扱う現在のMDに近づいたから。コンビニが弁当やおにぎりなどを品揃えするまでは、これらを購入できる場所は限られていた。例えば弁当でいえば、まず思い浮かぶのは駅弁であり、あとは商店街の総菜屋や仕出し弁当など。おにぎりは商店街の和菓子屋でも扱っていたが、日本を代表するファストフードとして市民権を得たのは1978年にセブン-イレブンで扱い始めてから。

しかし、最初はおにぎりは家庭で手づくりするものという既成概念があり、人気商品とはいえなかった。それが1984年に現在のようなパラシュート型包材のおにぎりが新発売されたあたりから売上に弾みがつき、2014年2月にはセブン-イレブンだけで年間18億7,600万個も売り上げる大ヒット商品となった。他のコンビニチェーンも合わせれば、年間30億個前後は売れているはずだ。単純平均すれば日本人1人当たり20個以上コンビニのおにぎりを食べていることになる。

つまりセブン-イレブンをはじめとするコンビニでは、弁当やおにぎりなどを競合業種や家庭から引っ越しさせることで売上を拡大したのだ。そしてこのような「商品の引っ越し」は、ファストフードや惣菜だけではなく、飲料やアイスクリーム、スイーツなどに及び、直近では入れたてコーヒーをカフェ(喫茶店)や缶コーヒーからシフトさせることに成功した。セブン銀行のATMでは、お金をおろしたり、振り込みしたりといったサービスニーズまで引っ越しさせた。

「中食の誕生」時期にコンビニが登場

「生活カレンダー」調査のフォーマット

しかし、商品を引っ越しさせるほどのムーブメントとなるためには、その背景となる要因がなければならない。それで思い出すのが筆者が1983年から参加した(株)ネクストネットワークのヤング層を対象とした定性調査「生活カレンダー」の分析をしていた時感じた食生活の変化だ。ちなみにこの「生活カレンダー調査」は、15~25歳までの男女50人にモニターになってもらい、毎月1週間の生活の記録をフォーマットに合わせて1年間書いてもらうというもの。生活カレンダーを書いてもらう前には、各モニターのプロフィールを知るために、2時間程度のデプス(深層)インタビューも行っていた。

この「生活カレンダー調査」が始まったのは1983年4月のこと。食品、飲料、乳製品、住宅設備などのメーカーに会員になってもらい、毎月1回研究会を行っていた。この調査が3年目に入った頃だと思うが、カレンダー上に記述された現象面をレポートするだけではなく、食シーンを定量的に分析してみようということで、50人のモニターの1年間の食シーン約1万7,000回を「内食」「外食」「その他」に分類してみた。

その時感じたのは、きれいに「内食」「外食」に分類されない「その他」の食シーンが思いのほか多いなということ。具体的には高校の教室や大学の中庭であったり、職場近くの公園やオフィスの自分のデスクなどで、かなりの頻度食事やおやつを食べていた。その集計を前にして、日本人の食シーンは「内食」「外食」という二次元的な分類では割りきれなくなっており、内食と外食の間を「中食」としなければ全体像は見えなくなってきているのではないかといった議論をしたことを憶えている。

「中食」がコンビニ業態の成長を担保した

これが1985年頃のこと。いまや日本の食を語る上で欠かすことのできない「中食」の概念の発見としてはかなり早い時期だったのではないかと思う。ただ「中食」を誰が言い出したかなどはさして重要な問題ではない。それよりも大事なことは、1985年頃には「中食」シーンはかなり浸透しつつあり、それから推測すれば1970年代後半からは、少しずつ「中食」シーンのボリューム化が進んでいたのではないかということ。つまりセブン-イレブンが1978年に手巻きおにぎりを発売、弁当やサンドイッチの販売にも力を入れ始めた時期は、食シーンとしての「中食」の台頭と見事に一致していたのだ。見方を変えればコンビニの「商品の引っ越し」は偶然の産物ではあるが、それでもこの二つが「中食の誕生」と軌を一つにしたことで、その後のコンビニ業態の快進撃につながったことは間違いない。

要するにコンビニ業態は、ただなんとなく伸びたのではなく、おにぎりや弁当、惣菜などによって、それまで外食などに流れていた食シーンを取り込めたことで大きく成長したのだ。逆にいえばコンビニ業態の売上高が、百貨店業態やGMS業態を抜き、SM業態に迫りつつあるのは、日本人の食シーンの変化からすれば必然でもあったといえる。

【参考データ】惣菜市場規模 業態別推移と外食率・惣菜率

執筆:山口 拓二

第4回<予定>「おかず屋」「ハーフデリ」「惣菜」

30〜40代女性の生活を見える化!「食トレ研究」2017年の生活者の食ニーズ
食のトレンド文庫「スーパーマーケットの食トレンド」むかしはいまの物語

【スーパーマーケットのマーケティング事始 第2回】 日本の中流層の劣化とスーパーマーケットの対応

独自のポジションを獲得したアップスケールスーパーチェーン

関西でニッショーストアが人気を博していた1980年代から1990年代前半以降、その他の地域でもアップスケールスーパーチェーンが登場した。例えば価格競争の激戦地と言われた九州でも、岩田屋子会社のサニー(現西友)が先行し、北九州からはハローデイが続いた。中国地方ではフレスタがイズミやユアーズとの競合のなか、アップスケールスーパーに舵を切り広島では大きな支持を得た。

首都圏ではヤオコーが話題となる前に、それまでくすぶっていた伊勢丹ストアが、クィーンズ伊勢丹に店名を変え、高級スーパー寄りのアップスケールスーパーとして急成長した。ちなみにこのクィーンズ伊勢丹の復活の裏には、オール日本スーパーマーケット協会(AJS)が開発・使用していたカートラックなどのSM運営マテリアルの導入があった。また、埼玉県の嵐山バイパス店を「マーケットプレイス」フォーマットに改装したあとのヤオコーの快進撃は多くのメディアで取り上げられている通りだ。東北でも秋田県北部から秋田市、青森県弘前市などへ進出している伊徳がアップスケールスーパーとして独自の位置を確保している。

スーパーマーケットの価格競合に異変

しかし、ここへきてアップスケールスーパーのポジションが大きく変わってきた。もともとアップスケールスーパーは、標準スーパーよりワンランクアップの商品を、経営努力によって標準スーパーと同等の価格で提供する業態と定義されている。それが最近では一部のグローサリーに関しては、ディスカウントSMに近いラインにまで価格が引き下げられつつある。

もちろんこれはチェーンによってかなり差があることはいうまでもない。広島のフレスタは清涼飲料の価格をそれほど引き下げていないが、ヤオコーはディスカウントSMとほぼ同じ500ml PETで70円台前半まで下げている。同社の場合、清涼飲料だけではなく、商品価格が明確なカテゴリーでは、同じような価格政策になっている。このようにヤオコーをはじめとするアップスケールスーパーがグローサリーの価格を引き下げているため、標準スーパーも価格を修正、ドライ食品に関しては業態による価格差はなくなりつつある。

伸び悩む収入、増える公的負担

こうしたスーパーマーケットチェーン各社の価格政策の変化は、決して恣意的なものではなく、変わらざるを得ない理由があってのもの。情緒的な言い方をすれば、1980年代から1990年代前半にかけては、気分は”一億総中流”の時代であり、まだ所得は多くなくても、いつか自分も”中流になれる”と思える時代だった。しかし、それから四半世紀が経った現在、日本は夢を持てるかつての均質社会から格差社会に変化した。

例えば国税庁の「民間給与実態統計調査」(表1参照)によれば、平均給与は1997年に467万3,000円とピークになったあと下がり続け、2009年には13.1%ダウンの405万9,000円を記録、その後少し持ち直したとはいえ、最新の2014年データでも415万円とピークに比べると52万円強少なくなっている。

また2014年の平均給与の分布を見ると、300万円以下が40.9%で最多で、男性でも24.0%が300万円以下だ。次いで300万円超から500万円以下が31.2%、500万円超から1,000万以下が23.7%、1,000万円オーバーの高額所得層が4.1%となっている。別の見方をすれば現在の日本では、民間企業に勤める人のうち、4分の3近い72%の人が500万円以下の給与しか得ていない。しかも4割の人が300万円以下の貧困層に属している。つまり、かつて「気分は1億総中流」だった日本から、いまや中流層の下の部分がすっかり抜け落ち下流層へとシフトしているのだ。そして「いつかは自分も中流になる」というダイナミズムがなくなり、将来が見通せないなか、閉塞感が日本社会を重苦しくしている。

こうして給与は上がらず、逆に給与ダウンもありうる状況のなかで、税金、年金、健康保険などの国民負担率は上がる一方のため、日本人の手取り所得は確実に目減りしている。課税額が少ない貧困層も、所得額に関係なく課税される消費税が追い打ちを掛けることになった。2014年4月1日の消費税増税は、ようやく明るくなりつつあった消費環境に冷や水を浴びせかけることになったことは記憶に新しい。

この二重苦を抜け出すため、少しでも現金所得を得ようと働きに出る母親が増えている。今年7月12日に発表された2015年の「国民生活基礎調査」では、18歳以下の子どもがいて仕事をしている母親の割合は68.1%と過去最高を記録した。これは総務省の「労働力調査」(表2参照)でも裏付けられている。35~44歳の女性の就業率は2013年に70%を超えているし、45~54歳ではそれより7年前の2006年から70%オーバーになっている。世帯主の給与減を補填するために働きに出る女性が増えているのだが、子どもたちの教育費や習い事をカバーするのがせいぜいで、暮らしのレベルアップにまでお金は回らず、生活の質を維持することさえおぼつかない状況になっている。

さまざまな業態の均一化が進む

給与のゆるやかなダウンや非正規雇用の増加などによって、日本の中流層は確実に目減りしている。このような状況のなか、ヤオコーをはじめとするアップスケールスーパーが、グローサリーの価格をディスカウントSMに合わせたり、野菜を適正価格で販売しようとしているのは、下流層へシフトしてしまった、かつての中流層をターゲットとして想定しなければ、自分たちの顧客層が薄っぺらなものになってしまうからだ。必然的に旧中流層を取り込む価格政策は、総菜や精肉、鮮魚以外はスーパーマーケットの実勢価格に合わせざるを得ず、ディスカウントSMに近づく。

逆にライフコーポレーション、サミット、いなげやなど標準スーパーを中心に展開していたチェーンによるアップスケールスーパー業態の開発が目を引く。これは標準スーパーは、中流層のなかでも年収300~400万円前後の層を主力にしていたことも関係している。つまり四半世紀前までは厚めに存在した旧中流層が下流層へシフトしたことで、そのまま同じターゲットを狙い続ければ売上のジリ貧は避けられないと考えたのだ。そこで中流層でも上のクラスの年収500~800万円の層の人に足を運んでもらえる店舗の開発、多店舗化をめざしはじめたのだ。

【参考データ】表1 勤労者平均給与と国民負担率の推移

【参考データ】表2 女性の年齢階級別就業率の推移

執筆:山口 拓二

第3回<予定>「商品の引っ越し」と「中食の誕生」

30〜40代女性の生活を見える化!「食トレ研究」2017年の生活者の食ニーズ
食のトレンド文庫「スーパーマーケットの食トレンド」むかしはいまの物語

【スーパーマーケットのマーケティング事始 第1回】「ターゲットの発見」

むかしニッショーストアというスーパーマーケットがあった

275d7f4c21454f8c0d01a63e4db62d19_l首都圏のスーパーマーケット(以下SM)では、ヤオコーの評判がいい。一時期「ヤオコーの商品は高い」といったネガティブキャペーンで苦しんだが、最近は加工食品や飲料などについても、ディスカウントSMに負けない価格設定で競合店に付け込むスキを見せていない。野菜をはじめとする生鮮食品の価格もリーズナブルだし、2分の1カット、4分の1カット販売も当たり前になっているキャベツや白菜のプライシングも、フルサイズ価格の半分、4分の1であり、小容量になるほど高くなる店舗に比べるとフェアプライスに徹している。

そのヤオコーより20年近く前の1980年代から1990年代前半にかけて、輝いていたスーパーが関西にあった。現在はエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪食に吸収合併されたニッショーストア(現阪急オアシス)だ。これから何回かにわたって、筆者が旧ニッショーストアをはじめとする流通業で学んだ「食のトレンド」の見方や対応していった食ニーズについて、まとめていきたい。

低価格販売で市場を席巻したダイエー

supermarket_photoニッショーストアが1980年代半ば以降に、注目されるようになったことを説明するには、その前提として1960年代、1970年代の関西のスーパー業界の競合状況が、どのようなものだったかを知ってもらう必要がある。1950年代から1960年代前半にかけて、ダイエー、岡田屋(現イオン)、ニチイ(旧マイカル)、イズミヤなどGMSチェーンになっていく企業や関西スーパーマーケットなどSM企業が続々設立された。そして1960年代は大量仕入れ、大量販売を武器にダイエーをはじめとするスーパーストアが価格攻勢に出たため、食品スーパーは完膚なきまでに叩きのめされることになった。

そこで1960年代半ばから関西のSMチェーンが打ち出したのが「鮮度管理」「品質管理」を徹底することによってスーパーストアに対抗することだった。例えば葉物野菜では、売場に出す前に冷塩水処理で水揚げを行い、収穫したてのような瑞々しい状態にして販売、鮮度に問題のあったスーパーストアの野菜より優位に立った。また精肉は、1960年代にはドリップが出ていても平気に販売されており、価格の安さを除けば消費者にとって決して満足度の高いものではなかった。そこで関西スーパーマーケットがリードして開発したのが、売場面積は450坪だが、売場の背後に生鮮の作業場(バックヤード)を備えたSMだ。これで提供する生鮮食品の質はぐっとアップした。そのよりどころになったのが、1962年に設立されたオール日本スーパー経営者協会(現オール日本スーパーマーケット協会)だ。

スーパーマーケットにマーケティングはなかった

cart_photoしかし、ここまでであれば「価格」のダイエー(スーパーストア)に対して「クォリティ」の関西スーパーマーケット(SM)と、それぞれの業態が自分の得意とする所を活かして、食品販売の主導権を取ろうとした話にすぎない。それが1980年代に入って、ニッショーストアがSMの運営にマーケティングを導入してから様相が一変する。つまり、それまではGMS(スーパーストア)であれ食品スーパーであれ、マーチャンダイジングはあってもマーケティングはなかったのだ。

逆にいえば、マーケティングなどなくても、日本全体が好景気に沸き、1973年の石油ショック以降は所得が大幅に伸びる状況にあっては、商品は並べるそばから売れていった。マーチャンダイジングは「商品化計画」と訳されることが多いが、1970年代前半は商品化計画など面倒臭いことをしなくても、きちんと仕入れをして業種店より安く提供すれば売れたのだ。あらゆる商品の普及率が上がり、買い替え需要を掘り起こすしかなくなったいまとは、市場状況は全く違う。

中流層の発見が売場に活気をもたらす

量販店(GMS)、食品スーパー(SM)の時代毎のパラダイム

量販店(GMS)、食品スーパー(SM)の時代毎のパラダイム

ところが1980年代になると、高度成長にも陰りが見えてくる。その不振をなんとかしたいと考えて仕掛けられたのが「バブル経済」だったが、1990年代初頭にバブルは泡と消えた。そこで売場に商品を並べれば売れる時代ではないことを察知し、ニッショーストアが取り組んだのがマーケティングの導入だった。より単純化すれば、同社は食品SMチェーンとして初めて「ターゲット」を設定したのだ。当時同社は自分たちを「アップスケールスーパー」だと規定していた。これは販売する商品は標準スーパーよりワンランクうえだが、店舗オペレーションの効率化などによってコストを下げ、販売価格は標準スーパーとほぼ同等に据え置いた業態だ。言い換えれば、1970年代の一億総中流時代から、少しづつ格差が生まれ始めた状況のなかで、ニッショーストアは自らを「中流」と意識した人たちのうち、ふるい落としの後にも中流に残りそうな人、あるいは上流に手を掛けられそうな人を自分たちのターゲットとすることで、自社のポジションを明確にしたのだ。

その結果、1980年代のニッショーストアには、中流層に足場を置く消費者が、「自分たちのスーパー」と意識して来店、好業績を達成していた。当時の同社の経常利益率は5%台で、SM業界にあってはトップクラスだった。しかし、自社のターゲットを明確にしたニッショーストアは当時のSM業界にあっては、アップスケールスーパー=高級スーパーとしか認識されていなかった。つまりスーパーストアやSMの関係者にとってアップスケールスーパーとアップグレードスーパーの区別さえついていなかったのだ。同社のマーケティング導入を主導したのが、店舗運営部長だった井上靖之氏。ただ1995年暮れに同氏が60歳を前に急逝、ニッショーストアは急速に輝きを失っていく。そうなってしまった要因を探ることもまた、重要なテーマではあるが、それは別の物語になる。

執筆:山口 拓二

第2回<予定>「スーパーマーケット中流層ユーザーの劣化とその対応」

30〜40代女性の生活を見える化!「食トレ研究」2017年の生活者の食ニーズ