食のトレンド文庫「スーパーマーケットの食トレンド」むかしはいまの物語

【スーパーマーケットのマーケティング事始 第14回】私的日本のディスカウントストア(DS)論

日本のDSチェーンが売上高1,000億円を超えられなかった理由

スーパーマーケット1990年代までは、日本のディスカウントストア(DS)には「1,000億円の壁」が厳然としてあった。売上高1,000億円に最も近づいたのは、イトーヨーカ堂グループとなっていた平塚のダイクマだが、IT家電の取り込みに失敗してあえなく失速、ヤマダ電機に吸収された。ロヂャースや多慶屋などの中堅DSも店舗は多くのお客様であふれかえる繁盛店だったが、売上は数百億円規模以上にはならない状態が続いていた。

またウォルマートやターゲットなどアメリカのDSチェーンをモデルに、日本での展開を図った九州のMr.MAXも1990年代初頭に、売上高1兆円構想を打ち上げたが、現状ようやく売上高が1,000億円を超えている程度で、計画と実績の間には大きなギャップがあった。

このように日本のDSチェーンが伸び悩んだのにはいくつかの理由が考えられる。まず一つ目の要因は、ダイエーをはじめとする量販店そのものがディスカウントストアの要素を持っていたということがある。日本にスーパーマーケット(SM)が登場する以前は、商品は定価販売が主体だったが、中には定価自体がはっきりせず、小売店によっては不当に高い価格で販売されているケースもあった。それがSMの登場で初めて値引き販売されるようになり、日本人は商品の価格は店舗によって違うのだということを学んだ。

ダイエーの場合は、もっとディスカウントのインパクトは強かった。神戸・新開地近くの小さな薬局からスタートした同社は、実質1号店と言われる大阪・千林店で一般用医薬品の安売りを実施、鮮烈なデビューを飾った。その後も同社は松下電器(現パナソニック)や花王などトップメーカーと価格主導権の争奪戦を繰り広げ、価格破壊がダイエーの代名詞ともなった。

その後ダイエー、イトーヨーカ堂、イオン(1990年代まではジャスコ)など大手チェーンはオペレーションコストがアップ、創業期のように商品を安く売れなくなっていく。そこでダイエーは「トポス」、イトーヨーカ堂「ザ・プライス」、ジャスコ「ザ・ビッグ」のようなDS業態を開発、減価償却の済んだ店舗をディスカウントストアに転換して、ニーズの取り込みを図っていく。つまりDSチェーンが自立を図ろうとしても、大手チェーンが業態を複合化させていったため、1990年代まではDSチェーンはビッグチェーンとディスカウントニーズの取り合いをせざるを得なかったのだ。

システム発想がなかった日本のディスカウントストア

問屋二つ目の要因は1990年代までの日本のディスカウントストアには、商品を安く売るための仕組みづくりをしようとする意識がなかったことがある。そのため当時は商品の仕入れ先として現金問屋が幅を利かせていた。ちなみに現金問屋とは、倒産したメーカーや不渡りを出した卸の商品は言うまでもなく、大手メーカーの決算処分品などを破格の価格で揃えていた卸のこと。いくらかはアンダーグラウンドに通じる部分が必要で、びっくりするような掘り出し物もあった。

それで思い出すのは名古屋のハローフーヅというSMチェーンのこと。現在は大阪のコノミヤの傘下に入っているが、同社は1980年前後から一部の店舗をSMからDSに業態転換して大きく売上を伸ばし注目されていた時期があった。そこで筆者も当時ハローフーヅのDS部門を統括する役員にインタビューしたことがあった。その際出てきたのが「名古屋は東京と大阪の中間にあり、アパレルメーカーや卸が型落ち品を処分しやすいため、商品が豊富に出回る土地柄なんです」という説明。「カルヴァン・クライン」「ラルフローレン」などの有名ブランドは、東阪で処分すると目立ちすぎるので、名古屋のハローフーヅなどに持ち込み帳尻を合わせていたのだ。

つまり1990年代までの日本のディスカウントストアには、仕入れの仕組みを開発しようとか、効率的な物流システムを構築しようといった発想はなかったのだ。別の言い方をすれば、当時のディスカウントストアは、一発当てて繁盛店になろうとは思っても、産業化して規模拡大しようといった考え方はなかったのだ。

日本でディスカウントストアが伸び悩んだ三つめの理由は、時代状況からくる生活者の意識が大きく関係している。日本では1950年代半ばから高度成長が始まり、景気の変動こそあったが1980年代末まで続く。そのため世論調査では9割近くの人が「自分は中流だと思う」と答えていたのだ。ただ一億総中流と言われた時代でも、すべての人が中流だったわけではなく「実際に中流以上の人」と「いつかは中流になりたい人」に分かれる。とはいえ当時の状況からいえば、自分も中流になれると思うこと自体はごく自然だった。

このように団塊世代をはじめ多くの人が「中流」となり、それに続く世代もいずれ中流になれるはずと思っているなかでは、ディスカウントストアの利用は限定的にならざるを得なかった。まして1990年代初めまでのディスカウントストアの品揃えは、計画的MDではなくバッタ品中心だったから、欲しい商品がいつでもDSで手に入る状況ではなかった。これもDSが1990年代までは補完的業態にとどまっていた要因の一つだった。

DS業態成長の分水嶺となったのは2000年前後

ドン・キホーテ業態として成長できなかったDSに変化が現れたのは2000年前後のこと。ドン・キホーテが売場面積300坪の、当時としては大型の新宿店を1997年にオープン、1998年6月期は255億円に過ぎなかった同社の売上高は、2年後の2000年6月期には約3倍の734億円まで拡大する。

一方、ロボットを導入したローコストオペレーションのSMを出店するなど、アイデアで業界生き残りを図って来たオーケーは、1986年に基本方針に「EverydayLowPrice」を加えていたが、1990年代後半にはその姿勢を徹底、競合店のチラシ価格が同店より安ければ、チラシを持参した人には同じ価格で販売するプロモーションを実施、成長軌道に乗り始める。もう一つのトライアルカンパニーは、創業時の事業がソフトウエア開発及びパソコン販売だったこともあり、本格的な成長は2000年代に入ってからになる。

このように2000年前後を境に、ディスカウントストアが成長期に入ってきたのは、日本社会の変化が密接に関わっている。1991年にバブル経済が崩壊、銀行の不良債権が大きな社会問題となり、1997年には山一證券や北海道拓殖銀行が経営破綻、かつてない就職氷河期から派遣労働などによる非正規雇用の拡大が始まる。それが一億総中流と言われた均質社会に格差をもたらし、年収が300万円に達しない低所得層を現出する。つまり1990年代後半から2000年代にかけて、それまで存在しなかったディスカウントストアのユーザーが大量に生み出されたのだ。そうでも考えない限り、その後のドン・キホーテやトライアルカンパニー、オーケーなどの成長は説明がつかない。

見方を変えれば1990年代初頭までは、丸井の割賦販売のように将来の収入増をあてにした消費形態をとることができ、ディスカウントストアでの買物はあくまで補完的なものだった。それが2000年代に入って、トライアルカンパニーやオーケーに全面的に頼らざるを得ない顧客層が登場、DS業態の規模拡大になっていったのだ。それを象徴するのが、トライアルで販売されていた「コシヒカリ」だ。この商品はディスカウントストアで買物するにしても、やはり銘柄米にしたい人のために品揃えされていた商品だが、炊飯してみるとごはんの真ん中が盛り上がらず、逆に盛り下がるようなコメ。つまりトライアルのコシヒカリには、かなりの比率でくず米が混入されていたのだ。それでも「トライアルコシヒカリ」が売れるところに、所得は低くてもせめて「コシヒカリ」で満足感を得たいという、切ない心情が見て取れる。

消費者のライフスタイルへの対応に成功したドン・キホーテ

21世紀に入っての日本でのディスカウントストアの台頭は数字的にも裏付けられている。トライアルカンパニーとオーケーは売上高3,000億円を突破、ドン・キホーテにいたっては2016年6月期に連結売上高は7,595億円まで拡大してきた。これは日本の小売業ランキングでは12位で、いまや日本を代表する小売業の一つになってきた。最近はイトーヨーカ堂やユニーが地方を中心に店舗のスクラップを進めており、そのような物件に居抜き出店する事例も増えている。

DSチェーン主要3社の売上高の推移

表 DSチェーン主要3社の売上高の推移(excel ダウンロード)

ではなぜドン・キホーテはこれほど成長できたのだろうか。圧縮陳列を多用した売場プレゼンテーションがエキサイティングだった、地域特性に対応した個店経営が消費者ニーズを掘り起こしたなど、さまざまな要因が語られている。これらは決して間違いではなく、ドン・キホーテが成長した一因ではあるが、より本質的にいえば、見た目はいかにもディスカウントストア臭ぷんぷんの外観ながら、安さを前面に出すのではなく、顧客のライフスタイルに対応した売り方をしてきたからこそドンキの急成長が可能だったのだ。つまりドン・キホーテはアウトサイダーからスタートしたため、業態分類上はディスカウントストアとされてきたが、DSの範疇を大きくはみ出しているのだ。

したがってマイルドヤンキーから支持が始まったドン・キホーテは、やがてファミリー層を顧客化、最近では外国人観光客にも人気となっている。1990年代にヤンキー層に人気となったのは、彼らが百貨店はもちろんGMSにも親和性を感じていなかったため。つまりドン・キホーテがヤンキー層の買物の受け皿となったのだ。ただ彼らは安さにひかれたのではなく、ドン・キホーテの品揃えや売り方に共感したからこそメーン顧客となっていった。同店で商品と顧客をつなぐPOPには、商品の特徴が消費者目線で表現されている。こうしたきめ細かな取り組みは一般的なディスカウントストアにはない。これは典型的なディスカウントストアとして、安さを前面に出して成長してきたトライアルカンパニーとの大きな違いだ。

執筆:山口 拓二

第15回<予定>「フードからミールへ—変質する食品の販売 」

「スーパーマーケットのマーケティング事始」執筆者 山口拓二にご質問をお寄せください。内容を確認し折り返しご連絡させていただきます。下記にご入力のうえ送信ボタンを押してください(山口拓二 直通)。貴社のマーケティングの課題など、ご相談もこちらから受け付けています。

    • お名前
    • メール
    • お電話
    • ご質問

    30〜40代女性の生活を見える化!「食トレ研究」2017年の生活者の食ニーズ